第17回教育懇談会での講演記録
「青年期の我が子とどう向き合うか」
はじめに-教育懇談会の意義を考える-
本日、大変暑い中をご出席いただいた皆様に心より感謝を申しあげます。そして、本懇談会を企画し実施に向けてたくさんのエネルギーを費やしてくださいました役員の皆様に心より御礼申しあげます。本当にありがとうございました。
全国の大学・短期大学では、こういう懇談会のような催しが少しずつ増えてきているように思います。17回目を迎える本学の懇談会は、1991年から全国に先駆けて開催されてきたものでございますが、私は、これは本学の保護者、教職員、先輩方に非常に先見の明があったことの証明であると思います。先ほど前田会長からお話がございましたように、今日教育のあり方が厳しく問われています。しかも非常に深刻な青年の問題が多発している。そういう中で、私たちは自らの教育を見つめ直すと同時に、この懇談会を通して保護者の皆様と共に考えていく必要があるのではないかと思っております。
そして、私なりに考えますことは、まず第一に、本学は一人一人の学生を大切にし、その希望をかなえることを建学の精神とし、教育の基本方針とし取り組んでまいりましたが、山本副学長から詳しくお話がありましたように、それをスローガンで終わらせるのではなく、実のあるものにするために、本学の小規模な短期大学という個性をどれだけ生かしきるかということが、非常に大切なことではないかと考えています。ヒューマンスケールという、こういう規模の大学だからこそ、私たちは一人一人の学生を大切にし、その夢を実現するサポートをすることができると考えています。
そのためには、一人一人の学生を理解する必要があります。しかし学生を理解しようといかに踏ん張っても、その気持ちの強さだけでは学生を理解することができません。そのためには保護者と教師が共に語り合い、一人一人の子どものイメージをお互いに深め合いながら、学生を大切にすることの中身をつくり上げていくことが大切です。その意味で私は、今日の懇談会と、そしてこれからの語り合いは非常に大事なことになると思っています。
それから二つ目は、この懇談会の歴史を振り返って見ますと、17回のうち7回目以降は話し合いだけではなく、一貫して青年と教育への理解を深めるための講演、今日はそれを私がさせていただくわけですが、この講演を懇談会の中に組み入れてこられた。それは、子育てに悩み、さまざまな問題を抱えている保護者の皆さんが、我が子をどう理解したらいいのかということと、我が子と自分の親子関係をどうすればもっとより良いものにしていけるのか、そんな願いをこの場で考え、我が子との親子関係を振り返る、そんな取り組みをこの懇談会の中に持ち込んでこられたということで、私はそれをとても大切な着眼だったと思います。
このように学生を大事にする。そして、保護者の皆様が、ここで我が子を、そして自分の子育てを振り、これからを考えていくというこの場は、同時に、大学論で申し上げれば、本学の大学改革に大きなインパクトを与えてきたことでもあると思います。それはなぜかと言えば、本学が学生にとって学びの場であるだけでなく、その保護者が、お互いに知り合う、学び合う、そして新しい学問に接する、そんな場を提供する、専門の言葉でいえば生涯学習の場として、発展しなければならない大学の姿そのものであるからであります。
学生たちのために一生懸命していれば大学の使命が果たせる、という時代はもう過去のものでありまして、それを前提として、子どもが入った大学に、保護者が自分も学生のように、1年に一度このように集い合って、そこで自分も新しい学問というものの片鱗に触れてみる、そして、自分の過去と現在を見つめ、将来を考えてみる。我が子も親も育ち合う、そんな大学に生まれ変わる一つのインパクトとして、この懇談会が機能している。そんなふうに考えています。少し大きな風呂敷を広げたかもしれませんが、しかし、新しい困難な時代に、この懇談会をいままで築いてきたことの意味を振り返ってみると,このトライがこれからも必要なのではないか。こんなことを一つのキ-としながら、私たちはこれからも、後輩たちのためにもこの懇談会を豊かに盛り上げていく必要があるのではないかと思っています。
(1)子育ての不安の強まり
さて、ご挨拶はこれくらいにして、今日は 「青年期の我が子とどう向き合うか」ということを、学長としての立場からではなく、臨床教育学を研究してきたものとしてその専門の立場から、今日の子ども・青年問題の難しさや、その重大さについてみなさんに率直にお話ししたいと思います。
本学に赴任して、わずかまだ数ヶ月ではありますが、私は、この教室で1回生への講義をしています。講義が終わった後、学生たちがワッと寄ってきて、先生今日はああだったこうだったと、いろいろ言ってくれるのです。この素直さは宝物だなと思いながら学生達の話を聞いているのですが、私流に言えば、本学の学生から、私自身が臨床的に学んでいるということになります。学生たちはいろいろ言ってくれるんです。時にはおだててくれます。学生は教師思いですね。この前も、「先生の講義、後期は無いの」と言うんです。「時間割では前期で終わりなんだよ」と言うと「後期もやって欲しいな」という訳です。「後期も先生の授業聴きたいなぁ」教師冥利に尽きる言葉です。何か暖かい気持になりました。
今日はそんな学生たちが折りにふれて話してくれたこと、帰りのバスや電車の中でも声を時々かけてくれる学生がいるんですが、そんな学生たちと話していると気付かされること、教わることがいっぱいあります。そんなことを含みながら、今日の子どもの問題、青年問題の難しさ、大変さを率直に見つめながら、親として、そして我々教師として、彼らにどう向き合っていったらいいのか、ということについてお話しをしてみたいと思います。
先週私は、関西の中でも指折りといわれる超有名な進学校に招かれました。それは、PTAの研修会で、我が子が高校1年になったお母さん方がたくさん来ておられました。講演の依頼があった時、なぜ私を呼んだのかと思いながら、招いた方に、「まず私に聞きたいことを事前に教えてください。」とお願いしました。そうしたら、こんなことを教えてほしい、話してほしい、というお便りがまいりました。その中に、「うちの子供には全く反抗期がない。とてもよく勉強する子なんだけれど心配だ」というのが何通かありました。こんなのもありました。「うちの子はとても聞き分けが良い子なんだけれど、いつ親を襲うか分からない、いつ我が子に襲われるか分からない。大丈夫だと思っていいのかどうか、そこを聞きたい。」というのです。
私は何故、超有名な進学校のお母さんが? と思いましたが、この前の秋葉原の事件を見てもわかるように、小学校・中学校のトップクラスの子ども、そんな子どもが高校に入ってから、ガクッと失速をして、その後あの事件を起こしてしまった。また、その2年前には、奈良で、お医者さんの息子さんが放火をして家族を殺害するという事件がありました。この子も小学校・中学校とも相当優秀な成績だったと聞いています。つまり、子ども達が、「頭だけの育ち」ではどうもだめらしい。頭は大事かも知れないけれど、やはり心がしっかりと育っていなければ、子育てというものが、非常に危険なことにもなるらしい、ということを、これらの事件を通して、親たちはひしひしと感じている。自分の子どもは、よい子でよく勉強するけど、自分は襲われはしないかと心配になって、私を呼んで話を聞きたい。こんな事だったんです。
今の若者達の育ちが示す大変さ厳しさが、私のもとにこんな要望が届くほど、今の若者の問題がとらえにくく、非常に難しくなっていることを表しています。私は、全国で不登校のカウンセリングをしてきました。不登校の子ども達がその経験を生かして、これからどのように新たな人生に旅立っていくのか、そんなカウンセリングですが、最近全国で見られる特徴は、グル-プカウンセリングに参加する人の数がものすごく増えているということです。先だって長崎に行ったんですけれども、長崎では、それこそ会場に入りきれないくらい、不登校の子どもを抱える親や子育てに心配のある人達がたくさん相談に来ていました。先ほど申しましたように、今日、子ども・青年をどうとらえるかそれが非常に難しくまた不安に満ちたものになっている。そのことを、私は臨床実践を通してきわめて間近でリアルに感じています。
(2)子どもの変化-新しい攻撃性-
私達が情報を通して掴んでいる最近の子どもたちの様子を一言でいうと、どうも、子どもたちの中に、言わば「新しい攻撃性」というようなものが蓄積しているらしい 、と表現できます。しかもその攻撃性が、最近は親に向かい、親を直接攻撃する。恨みを晴らすかのようなそんな攻撃性が子ども達、青年達の中に見られる。そして、現在は、秋葉原事件を通していろんな議論が行われていますが、その中には、不特定の社会に対して恨みを晴らすかのような、そんな爆発的な暴力の意味を問うものが増えています。親に対する恨みの暴力だけではなくて、社会に対する怨念を晴らすかのような暴力にさえ訴えずにはいられない、そんな思いが若者たちの胸の中にとぐろを巻いて宿っている。それは、多くの人が報道を通して知らされていることでもあります。
同時に、私のような歳まわりになりますと感じるんですが、ネット社会というものが、どうも若者たちの孤立をさらに深め、そのとぐろをまく怨念や恨みのようなものをもっと濃縮させて、それを爆発させるところまで持っていくような力を持っているらしい、というようなことも、多くの新聞や週刊誌などを読むと書いてあるわけです。
それを見て、子どもを育てている親たちの多くが、我が子がそうなるかもしれないと思っています。でも、実際、自分の子がキレたとか攻撃したというケースはそんなにないわけです。つまり、本当に事件が起こるケ-スを見ると、我が子がそんなことになるとは露も思っていない家族に起きています。ある日、突然、地獄の扉を開くように子どもがその攻撃性を発揮して深刻な事態を経験させられるわけであります。こういうさまざまな親を含めた家庭の問題、また非正規雇用を拡大するような怨念や恨みを増やす社会、そしてそれを取り巻くネット社会を、いろんな角度から分析しながら、この若者達の持つ新しい攻撃性の問題が議論されています。しかしそれらの議論を聞きながらも、多くの親たちは、なにが本当なんだろうかと迷い、そして一方で、自分は子どものことを本当にしっかりと捉えているのだろうかと、そんな不安にかられているのではないか、と私は思うのです。
さらに、もう一つ気になることがあります。こういう攻撃性が親や社会に向くのではなくて、自分に向いている若者たちの悲惨な事件です。特に硫化水素による自殺ですね。あのような事件がネット社会の中で広がっている。それを使って自殺という方向に攻撃性を向ける。そんな若者たちも増えていっているようです。だからこそ、一見元気そうに見える我が子だけれど本当に大丈夫かな、生きているのだろうかと思うほど心配している、そんな親たちも決して少なくありません。これもまた子どもたちの新しい攻撃性で、外に出た攻撃性と違い内に向いた攻撃性と捉えることができます。
少し重たい暗い話から始まりましたけれど、私は今まで、神戸のサカキバラ事件や池田小学校の事件、寝屋川の事件等を、臨床の立場から研究してきました。そういう事件があると、すぐに現場に飛んで地域の人たちにインタビューをして、いろんな情報を得て、週刊誌や新聞では得られない生の情報に触れて事件を分析し、今の子供や家族、そして学校が抱えている問題を研究してまいりました。
(3)子どもたちの心のブレーキ-愛着-
今日、ここではそれをお話しすることは控えて、別の角度から子ども・青年と家族の姿について、話してみたいと思っています。確かに新聞やテレビで知る子ども達の事件は深刻です。しかし、別の見方をすれば、多くの若者達は恨みや怒りの感情を覚えながら、しかし事件を起こしていない。これは一体なぜだろうか、という捉え方も必要なのではないでしょうか。世界的に見れば、日本では青少年の事件は非常に少ないと言われているのです。
これは長崎の駿ちゃん殺害事件を調べていて、はたと気づいたのですが、学校の教育がますます競争的になって、学校でも「勝ち組」「負け組」などという非常に恐ろしい言葉が流行ったりする中で、傷つけられた子ども達が増えている。その傷ついているはずの子ども達のほとんどは攻撃性を表に出していない、すなわち行動に移す前にブレーキをかけている子ども達がたくさんいる。攻撃したいという思いや感情を抱くことは避けられないとしても、それを行動に移すその前で立ち止まるそのブレーキは一体何なのか、ということを考えることも、これらの事件を考える上で非常に大事なことだと私は思っています。
私達の子どももいろいろ問題抱えているだろう。でも子ども達は、それを爆発させて、社会を震撼とさせる行動に出るのではなく、また自らを傷つけるのではなくて、そんな時になっても、ブレーキをかけて、そしてそれを乗り越えていってほしい。私たちはそう思っているはずです。にもかかわらず、子どもたちが身につけているはずのブレーキが外れてしまった時には、ひょっとすると事件に突き進んでしまうのかも知れない、という厳しい見方も必要だと思うんです。
そこでその子供たちが持っている「ブレーキ」について、それが何であるかをお話ししたいのです。子供達は幾つものブレーキを持っています。そのブレーキの中で1番大きなブレーキ、これを専門用語を使いますが「愛着」といいます。これを別の研究者は「基本的信頼感」と言っています。人間を信ずる力が基礎にあるという意味です。そういうものを子どもたちが心の中に築き上げることが大切なのです。子どもたちは、自分がものすごく頭に来てキレそうになったり、悪さをしそうになったとしても、そこでブレーキをかけるのが「愛着」の心です。そして実は、この愛着や基本的信頼感はどこに築かれるのかというと、それは圧倒的に多く母親とその子どもの間に築かれるのです。その愛着を築いている子どもは、さまざまな困難にあってもキレる前で立ち止まることができる、ブレーキを持っている子どもと考えていいのです。
このことを考えるのにいくつも例がありますが、皆さんにいちばん分かりやすい例を持ってまいりました。 この本、『ホ-ムレス中学生』です。僕の本よりも売れているようですが、「麒麟」という二人のグループの中の一人である田村さんという人が書いている本です。その本によると、お母さんが癌になって、再手術をしたけれども帰らぬ人となってしまった。そしてその後、お父さんもまた癌になって、お父さんがその癌と戦いながら手術をし、2度目の手術が終わって会社へ戻ったら、会社に-一部上場企業だそうですが-もうあなたは必要ないと言われた。これは本当に、構造改革が進められている日本社会における、企業の非常に大きな変質過程を表していると思いますが、必要ないといわれたお父さんは、奥さんを亡くししたその辛さと同時に、自らが社会から切り離されたような辛さの中で、前後を失ってしまったのでしょうか、子どもたちを呼んでこう言ったそうです。「これで我が家は解散する」と。解散式を行って、お父さんはどっかへ行ってしまう。彼は、この田村くんは母親に次いで父親をもなくしてしまった。お兄ちゃんは高校生です。
こうやって家族が解散して、それぞれが自分で生きることになった。彼は公園の変な形をした滑り台の下に自分の居場所を定めて、そこで雨露をしのぎながら、公園の水道で水を飲んだり、洗濯物をしたり、身体を拭いたりするという生活が始まりました。食う物がない、そうすると自動販売機のところに行って、ひょっとして誰かが10円忘れていないか、そんなことをしての生活だった。彼はお母さんが作ってくれたカレーと湯豆腐が大好きだったので、いつも腹が減ると、心の中にそれがイメージで湧いてくるんです。お母さんのカレーと湯豆腐、そんなことを思い出した場面を次のように書いています。
「草にも飽き、段ボールが食べられないことも知り、お金を探しても見つからず、空腹に限界を感じたその日、まだ昼間でお兄ちゃんが働く深夜までかなり時間があったから、何かの間違いでお兄ちゃんが昼からこっちにバイトに来ていないかと、お兄ちゃんのバイト先のお店にふらふらと足を向けた。勿論お兄ちゃんはいなかったが、僕の望んでいる食べ物はいっぱいあった。店の人からは死角になっている。こんなに腹が減っているのだから、1個ぐらい取っても罰は当たらないだろう、といけない考えが浮かんできた。かなり葛藤した。お兄ちゃんが働く店だからという考えは一切無く、ただ罪を犯すか犯さないかで迷っていた。腹の虫と理性が戦っていた。その時、お母さんの顔が浮かび、もしお母さんが見ていて、僕がそんなことをしようとしていると知ったら、どんな顔をするだろう。それを考えるととても盗む気にはなれなかった。腹の虫が泣いた」と。
彼は、空腹の極限で物を取ろうとしたけれども、その前にお母さんの姿が浮かび、お母さんを嘆かせるようなことをしてはいけないとそう思えたのです。彼は、盗みをせずに、罪を犯すことなく、困難を乗り越えていったわけです。私はこれを読んだときに、これこそまさに私が研究している愛着・基本的信頼感が、これだけの困難を極めた子どもの中にもしっかりと生きている姿だと思いました。いざというときのお母さんのイメージです。実は愛着というのは、お母さんのイメージが「心の中に住み込」んだ状態のことを言うのです。その母のイメ-ジを心の中に住み込ませている子ども達は、たとえば友達から、悪に誘われたりして、何かとんでもないことをしようとする時や、一歩行動に出る前に、その母のイメージが心に浮かび、ブレーキをかけると言われています。こんなふうに多くの若者達は、さまざまな困難や苦しいとき、時には怨念のようなものにつき動かされそうになったときに、犯罪にまで至らずに、その前で立ち止まっているのです。このことの意味を考えれば、全国でごく普通に子どもを育てている親たちは、懸命に子どもを育てている中で、子ども達の心の中にしっかりとそのイメージを住み込ませて、子どもにブレーキをかけてくれているということができます。そのように考えることが、必要ではないかと私は思うのです。
ブレーキをかけている多くの若者達のことを考えると、実はその力は、彼一人の力だけではなくて、まさに親子の関係のなかにあることが分かります。そして、そのブレーキは強くもなり、細々ともなり、時には消えて無くなってしまうことだってあり得るのです。あの秋葉原の青年が、親に対して抱いたのは、愛着ではなく、むしろ恨みでした。自分の気持ちなどまったく無視して勉強を強いたその親に対する恨みの言葉を、彼はあのネットに書き込んでいました。最後に頼るところがなかったんだなぁ、と私は思いました。
こうやってブレーキの問題を学んでいくことによって、私たちは、このブレーキは子どもの中に母親がつくるものであることを知ります。こういうと、母親ばかりが問われるのか、という問題になるのですが、実はその子どもの中に、いざというときに本当に力になる母親のイメ-ジを住み込ませていくには、父親の支えがどうしても必要なんです。その父親が、子育てがどれだけ大変なものかを、例えば、こういう場で学んでくださることが大切なのです。そして、自分が仕事で一生懸命働くだけでなく、どれだけお母さんが子どものためにエネルギーを使い、心配し、ハラハラどきどきしながら子どものことを思っているのかを分かってあげることが必要です。「本当に苦労かけるなあ。」と、母親が夫から一言いってもらえる関係こそ大切なものです。母親の苦労は当たり前のこと、当然のことのように思うのではなくて、その一言を、パ-トナ-に言える父親になることによって、お母さんは子どもを受け入れる力をもっともっと強めることができる。これもまた、ブレーキのことを研究していると、いろいろなケースから明らかになることなんです。
(4)子どものブレーキ -「チャム」-
さて、愛着と基本的信頼感についてお話ししましたが、ブレーキの中味を考えるときに、子どもたちにとって、もう一つ大事なことは、分かり合える友がいるかどうかということなんです。実は、子どもというものは本当に辛いことは、親にはめったに話しません。ブレーキになる親であっても、本当に辛いことは、それを親に話せば、親を苦しめるだろうと思って、子ども達は話さないんですね。わが子を失った親たち誰もが、「どうして私にだけでも話してくれなかったのか」と言います。でも、子どもの気持ちって、そういうものなんです。本当に辛いときには、親には話せない。
でもそれを、少し冗談めかして話せるのは友達なんです。親友に、ある時に、勇気を出して「君なら、こうなったらどうする?」と聞いたとします。真正面から聞くのは、恥ずかしい。野球のカーブやシュート、最近はフォークも流行っていますが、そんな変化球をつけながら友達に話をするのです。その返事を聞いて「そうか、友達も私と同じなんだな」と思ったりしながら、子どもは友達から勇気をもらって育つ。 このことをいちばん最初に明らかにしたのは、1940年代のアメリカの精神科医サリバンという人です。彼の『現代精神医学の諸問題』という本の中に出てくるのですが、彼はこれに「チャム」と名付けました。彼は青年の精神医学を深めながらこの「チャム」の存在の重要性を見つけました。中学生の頃にこのチャムをしっかりとつくった子どもは、高校や大学へ進んでいっても、そこでちゃんと親友をつくる力を持つことができる。そして、大変な困難を乗り越える力を、その親友と分かちあいながら身に付けることができる。
このサリバンの「チャム」についての話はとても大事な話です。秋葉原の青年には、残念だけれども、小学校・中学校時代はとても優秀だったかもしれないが、心から信じられるチャムをつくることができませんでした。親友をつくることができていません。親友をつくっていく。それが子ども達にとって、非常に大事なことなんです。それが2番目のブレーキになることを、頭の中に入れておいてください。
大学から帰ってきた子どもが、時々「今日は、なんとか君がこんな事を言ってて、とても面白かったよ」と、友達の話をいつも出してくれるようであれば、大学でもまた友人ができたな、という風にそこを読み取ってほしいのです。何を話しているかも大切なことですが、それと同じように、子どもにいろんなことを話せる親友がいるということは、とても大切なことなんです。
ゼミによる小グループでの学習活動、それから自主活動やサークル活動。本学は、学生たちの自主的な活動を本当に大切にしている大学ですから、その中で、学生たちが、心許せる友達をあらためて見つけなおす。困難が無くなることはないけれど、でも、ブレーキをかけて、その困難を乗り越える力を友達から得る。これはものすごく大事なことであります。
(5)子どものブレーキ -希望-
さて、三つ目のブレーキです。それは子どもが将来に希望を持っているかどうかであります。将来に希望を持っていない場合、すなわち絶望している場合、そのとき子どもたちは、自分のストレスを、自分の恨みを、自分の中に溜め込んで、暴力行為を起こすなど、さまざまな形でそれを爆発させます。子どもが将来への希望を持っているか、ということ。これが三つ目のブレーキとして大事な意味を持つということを、是非皆さんの頭の中に入れておいてほしいと思います。
おもに母親への愛着。そして親友、つまり心から許せる友達の存在、それと並んで大切なものが、その子の中に将来への希望があることです。私はこの大学に着任したとき、皆さんのお子さんが家族を気遣う話をし、そして「私はがんばって保育士になる」、「私は介護福祉士になる」「厳しい労働であっても、そこで頑張りたい」そんな夢を語ってくれました。それを聞いたとき、さまざまな困難を乗り越える力が、この学生たちの中に宿っていると思いました。だから私たちは、子ども達に、「こんな道もある、そんな道もある、その道に進むにはこんな資格がある。どれにチャレンジするか、これが困難の多いこの社会で、君が君自身を生かしていく方法だよ」といつも訴えているわけです。このことは、学生たちが心の中にしっかりとしたブレーキを持って、そして困難を越えていく、そういう力を得てほしいからです。
新聞やテレビで見る青少年の事件に関する情報は、我々に不安をかき立てる事ばかりですが、その中で、私たちの子育てや、今通っている学校が、ちゃんとそれを乗り越える力を、子ども達の中に育てようとしているかどうかを見直すための視点が必要です。そして、ただ単に不安に思うだけではなくて、私たちが、子育てにしっかりとした確信と希望を持つための知識を持つということ、そういうことが大切ではないかと思うわけです。
三つのブレーキについての話をしました。私は本学の学生たちと、いろいろ語り合う、多くはないけれども貴重な時間を持っています。その中でよく分かることは、学生たちは家族のことをとっても考えていることです。そして時にはとても心配している、ということなんです。時々「先生、ちょっと時間とってくれないかなあ。ちょっと相談したいことがあるんだけど・・・・」と言ってくる学生がいます。仕事が詰まっていて、なかなかその時間がとれないんですが、「忙しいんなら、ちょっとヒントだけでも教えてくれる?」って学生が話をしてくれる。そんな話を聞きながら、学生がいかに家族のことを思っているかということを知ります。学生たちの話す家族の問題のちょっと重たい部分は後にして、明るいことから、お話ししたいと思います。
(6)今、親に求められること -聴く-
まず、3日ほど前に学生と帰りの電車で話しをしたということを言いましたが、そのとき彼女はこう言いました。「今、私たちね。寮に住んでいるんです。寮に住んで分かったことがあるの。家族ってありがたいなあ。寮に入って、初めてそのことがよく分かった。家にいれば、ご飯の時はご飯が出てくるし、洗濯したものがいつも出てくるし、それが当たり前と思っていたけれども、当たり前じゃないんだよね。食事どうしよう、それから、洗濯どうしようとか、いつも自分でいろんなこと考えている。お母さんはいつもこんなことしてたんだなぁと、寮に入って初めて分かった。だから、お母さんに、本当はありがとうと言いたいんだけれども、照れくさいのよね」と言っていました。学生は正直です。そうやって、18才で下宿をしたり、寮生活をすることにも意味があります。さまざまな学生の中で、経済的にかなわない場合もあるでしょうが、こういう経験もまた、子どもたちにとって、家族の再発見につながっています。私は、非常に大事な話を聞いたなと思いました。「いい話を、本当にありがとう」と学生に言いました。そうしたら学生はこう言うんです。「こんなことは、経験しなければ、分からないんですね」って。すごいでしょう。学生は頭では分かっているんです。家族ってありがたいということは知ってるんです。しかし、それは知識なんです。それが寮生活の中で、肌で分かったのです。
さて、学生たちは、こういう家族の再発見の新しい面と同時に、家族に対する、さまざまな心配を持っています。その心配の一つ、または、家族に対する言いたい事の一つ、それは「私の話をちゃんと聞いてくれない」ということです。これは、学生たちが家族に対して思っていることですが、親にはめったにいません。「親は私の話をなかなか聞いてくれないんです」そういます。別の言い方では「親は、私にとっていちばん大事なことになると話をはぐらかす」と言うんです。
なぜなら、親はそれ以上のことを聞くと、親としての自分が批判されるのではないか、何かそんな思いになり、子どもの話しを正面からまともに聞くことを避けてしまう。子どもにとっては、ここから先を聞いてほしいのに。「それは、君を人間として認めてくれていないと感じる時じゃない?」と聞くと「そう、そう!」と学生は言います。親は、我が子に対して、こんなに一生懸命やってきたのに、そのことを否定されるかのような思いが先行して、つい防御の態勢に入ってしまう。そして、これからという時に、子どもの話しを、ついはぐらかしてしまう。子どもは、「今、私の話しを聞いてほしい。昔はああだったじゃないか、こうだったじゃないか、と言わないで、今の私の話しを聞いてほしい」そう思っている。でも、私たちは時として、その子どもの願いになかなか応えずに、子どもに甘えてしまいます。「それは分かってる。私だって一生懸命やってるんだから」と言って、子どもの話しに蓋をしてしまっていることに気づかないでいる。これが、18才を過ぎた子どもが、今、親に対していちばん言いたいことの一つなのです。
子どもが皆さんに何でも言ってくれるのなら、私は皆さんにこんな話しをいたしません。そうではなくて、言いにくいことは、子ども達はなかなか親には言わないのです。言わない中でも、男の子だったら全く無言になってしまう。女の子だったら、ちょっとキレるような話し方をし、親にわざと心配かける行動に出て、親の登場を誘います。「私の話しを最後まで聞いてよ。」この思いが子ども達の中にあるということを、知っていただきたい。
(7)今、親に求められること -対話-
それから、二つめに、学生からいろいろ聞く話の中に、両親の言い合いがとても辛いという話があります。両親の不和ですね。生活の中で、いろいろあってもいいんだけど、でも、お父さんとお母さんが目の前で対立するのを見るのはとても辛い。そのことを学生はカウンセラーをしている私を信じて言ってくれます。これは、不登校で相談にくる子ども達の話しの中にもいっぱいあるんです。高校2年生のある不登校の生徒の話ですが、こう言っていました。
「中学2年生から全く学校に行けなくなった。学校に行けない間、生きている実感がしなかった。いつ死んじゃうか分からない。」そんな彼が一息ついてこう言いました。「5才までは幸せでした。5才から今まで、私は不幸の中にいました。どういうわけか両親の喧嘩が始まって、そこにお祖父ちゃんとお祖母ちゃんが入って、家の中はどうしようもなくなってしまいました。でも一番辛かったことは、両親を見ていて、人には表と裏があることが分かって、そして裏切りや騙しがあることも分かって、それから人が信じられなくなりました。でも僕は、外では、両親をちゃんと評価してほしいから、良い子をしていました。普通の子どもに見えるように、良い子をしていました。だけど、家に帰ると辛くて、そして、中学2年から学校に行けなくなってしまいました。その私を救ってくれたのは、母でした。母は不登校の子を持つ親たちの会に参加してくれて、そこで勉強してくれて、僕の話しをちゃんと聞いてくれるようになりました。それから、自分の気持ちを聞いてくれる母に連れられて、外にカウンセリングに出るようになりました」と。
彼は話しの最後に、こんなオチを付けたんです。「でも、父はまだなかなか成長できていません」(笑い)と。ちょっとドキッときたのですが、女性の柔軟さ、しなやかさは素晴らしいですね。過去がどうあろうと、子どものために、いろんなことを子どもと話そうとしたんですね。私も男だから分かるんですが、男はやはりメンツがあって、子どもと向き合うのがなかなか難しい。でも、父親が分かってくれたその時、家族は新しい家族に生まれ変わる。このことは、いろんな臨床例を通して、子ども達が私に教えてくれた一つであります。
夫婦喧嘩をしてはいけないということではないんです。生まれも育ちも違う二人に喧嘩があるのは当たり前です。でも、時と場を選んで下さい。子どもは本当に敏感に感じます。そのことも十分ふまえて、私たちは子どもの気持ちを理解する必要があるのではないでしょうか。子どもには、家族にかける思いがいっぱいあって、家族を本当に大事に思っています。だからこそ、話しを聞いてほしい。だからこそ、両親には喧嘩でなくて話し合いをしてほしい。学生達は、そのことも私に語ってくれました。とっても嬉しく思いました。
学生達から学ぶ第二のことに、つけ加えておきたいことがあります。今日は高校の方もいらっしゃるということですが、この本『人間と教育』に書いてあることです。我々が読む専門の本ですが、この本の中に本学の附属高校の先生がこう書いておられるのです。
「本校に通ってくる生徒の大半は現代社会の歪みがもたらす様々な困難に傷つきながら生きている。経済格差は教育格差・学力格差を生みながら、底辺の生徒達を苦しめる・・・・・・このような生徒達を苦しめる状況が、構造的に複合的に生み出されている。この数年、新自由主義に基づく政府の構造改革がもたらした生活の貧困と家庭崩壊は凄まじいものがある。親の失業、リストラ、会社の倒産などで授業料が払えなくなって退学する者もいる。入学早々、いきなり担任を後ろから飛び蹴りして、「これはコミュニケーション」と言ってシャーシャ-としている。こんな生徒もいる本校では、学力回復を第一にし、生徒に自主活動に取り組ませてきた。(中略)こうやって、自ら力をつけ、そして自分の思いをちゃんと吐けるようになった」と。
この中に、大学に行った生徒達が、昨年の卒業式の中で、みんなで群読した詩が出ています。その一部分をご紹介したいと思います。「3年間支えてくれた父と母、いつからだろう父と母が言い争うことが多くなったのは。僕がいろいろ問題を起こすたびに仕事の時間を割いて学校にきてくれた母は、一緒に泣きながら謝ってくれた。ある日、余りに他に迷惑をかけるからもう学校をやめなさい、と机の上にハローワークに行くためのお金が置いてあった。学校はやっぱりやめたくはなかった。怒られてばっかりだけれど、僕の居場所はここにしかなかった。朝6時に家を出て、帰りは夜の11時になる父。話をすることも少なかったけれど、『お前、学校だけは卒業しろよ。』と言ってくれた。父が転職して大きく収入が減った。格差社会の荒波が私の家族にも押し寄せてきた。ファーストフードの店でアルバイトを始めた。朝6時から入る。進学したいとはなかなか言い出せなかった。兄に相談すると、短大だったら何とかうかるのと違うか、と背中を押してくれた。『もう一つパートを増やすから、あんたは心配しなくてもええよ。』と母が言った。生徒会の呼びかけに、西友前で助成金の署名運動に参加して、緊張しながら訴えた。念願だった福祉の短大に合格したとき、母は一緒に涙を流してくれた。母の必死で生きる姿を心に刻んでおこう。」
「卒業式の中で彼の話を聞いて、父母の席、教師の席からはすすり泣きが広がっていった」とこの本には書いてあります。子ども達は、こんなに敏感に感じながら、こんなにしっかりと、日頃は親達に心配かける行動をしながらも、自分をつくっているのです。子どもの話を最後まで聞こう。自分の言い訳よりも子供の話を聞こう。そんなことを思える親であろうとすれば、子どもたちとの関係は明らかに変わります。子どもは、本当に素直に、親との良い関係を望んでいます。そのことをぜひ体験していただきたいと思います。
(8)子どもが育つ力=社会的本能への着目を
第三に、私が皆さんにお話ししたいことは、学生たちが、自分の生きる意味を知りたいと思っているということです。「生きる意味を知りたい」という抽象的な言葉ですが、皆さんに話したいことはこういうことです。人間が生きるということは、人の役に立てる人間になることです。だから、講義の中では時どき、「教育という仕事を通してなのか、福祉という仕事を通してなのか、サービスという仕事を通してなのか、いろいろあるけれど、人の役に立てるに自分になること。私は何をして人に喜んでもらえるのか、何をして人の役に立てるのか、それが、皆さんが大学で学んでいる意味ではありませんか」と学生に話しています。これは、専門の言葉で「社会的本能」と言いますが、誰もが持っている「人の役に立ちたい」という気持ち。この心を大学で再び蘇らせることが大切です。
今、日本の小学校・中学校・高校での教育の仕組みの中で、人の役に立ちたいというこの「社会的本能」をどんどん削り取ってしまっています。なぜなら、すべて競争は他人を蹴落しながらやります。人の役に立ちたいではなくて、人より上に立ちたい、です。そういう教育を受けるなかで、子どもの中にしっかりと根を下ろしてしまうのは、社会的本能ではなくて、消費者の本能です。この消費者的本能は、非常に深刻な自己中心的な人格をつくります。
本来人間は、人の役に立ちたいという社会的本能を持って生まれてきます。3歳半から4歳くらいになれば、お母さんが食事の後かたづけをしているときに、「私もする。」と言って寄ってくる。お母さんは心配で止めてほしいと思うけれども、その気持ちは、「お母さんの役に立ちたい」という子どもの気持ちの表れです。私は学生達にこの社会的本能の話をうんとしたんです。すると学生たちは言うんです。「そうだよねぇ。」「俺、今のことよく分かったよ。」「僕たちは人の役に立つために学んでいるんだ」と。その結果報酬を得るのが社会的自立です。そのことをここで思い起こさせる。
学生が実習を終って帰ってくる。実習が大変なのは当り前です。人の役に立てるプロになるということは、大変なこと。簡単にできることではない。だから、「大変な勉強を大変だ大変だと言いながら勉強して、卒業するんだよ。もっと勉強しておけばよかったと思うだろう。これが人間の成長というものだ。だから、人の役に立てる自分になろう。それは、これからこの大学で学ぶいちばん大切な想いなんだよ。」と学生たちに話します。幼稚園の先生になる人にも、いろんな職場で、子どもや親や周りの人達に喜ばれる人間になりたい人にとっても、それが学生達の本当の願いだと、私は思うんです。このことに気がつくと、学生たちはこう言います。「今まで学校の勉強が嫌だった。辛かった。だって学校の勉強は、先生が覚えろ覚えろというだけだもの。中学校に入ってからそう言われて、高校でもそうだった。これは試験に出るから覚えろ、と言う。その意味を考えろ、とは言ってくれない。」学問とは、勉強というものは、考えることだと思いますが、そうではなくて、覚えろ覚えろと言われてきた。私はいつも講義の最後に、「何か質問はないか、考えてみたことはないか。」と聞きます。本当の勉強というものは、ただやらされて、覚えさせられて、それを吐き出すものではない。勉強は、それが人の役に立つという意味がある。そのことを知って、本当の勉強が始まるのです。
その本当の勉強を教育学の世界では、「学び」と言います。「今、子供たちは学校で学びを奪われている。子どもたちが学校でさせられている勉強は、『学び』ではなくて、学習になってしまっている。」と東大の佐伯先生は言っています。学習という言葉は、考えてみれば、サルも学習するし、犬も学習する。学校でこれを覚えておけと言われるのは、まるで犬に「お手」を覚えなさい、というのと同じで、動物の学習と同じようになってしまっている。そうではなく、それを「学び」として、子どもが「学び」を実感することが大切です。先ほど、この大学では、2年間で3年分の勉強をする、と言いました。この2年間の中身が問題なんです。2年間、自分がなんのために学ぶのか、自分がしたいことのためにと思っていたら、そうには違いないけれど、人の役に立つには、自分の役割、そしてそれへの見通しを持って、そのために学びを始める。勉強の質が変わります。「学び」になっていくのです。だから、学生たちは、2年間ものすごく勉強します。勉強すれば、ありがたいことに、いろいろな資格とともに、自分の活躍の場が開けてきます。
改めて最後に強調したいことは、聞き辛い話も最後まで聞いて、「あ-、あんたそんなふうに思ってたんだ。あんたの話、しっかり聴いたよ。」と子供と向きあって欲しい。そのあとならば、お母さんはこう思っているよ、ということをズバズバ言って下さい。大切なことは、話しの腰を途中で折ったり、話しを途中ではぐらかしながら、自分の言いたいことだけは言う、ということはしないことです。「お母さんに話してくれて、ありがとう。」そんな気持ちで、子どもの話を聞いてください。そうしないと、子どもの話に上から話をかぶせて蓋をしてしまうことになってしまう。「もう18才、子どもじゃないよ。」子どもたちはそれを私たちに訴えながら、人間として自分の話を聞いてほしい。これは、子ども達が皆さんに対して望んでいる切実な思いであり、いちばん大切なことの一つだと思います。今私がお話ししたことから、自分の子どもに、日々なかなか見えないですが、「こんなすばらしい長所があったんだ。へ-、こんなに変わったんだ。」と我が子の長所、素敵なところをぜひ発見して、そして、子どもの話をしっかりと聞いてあげてほしいと思います。
終わりに
こん日は本当に不安の多い悩みの多い時代です。でもこの大学は、親と教師が一緒になって学生達を育てていく。その場がここにはあります。どうしても難しい場合には大学に電話をください。先生方とお話しをして子こどものことを相談するのは大歓迎です。親たちも自分で抱え込まずに大学と一緒になって、学生を育てていく。この2年間で、子どもが大きく育つことができれば、うれしいことです。
今年の卒業生で保育士になった保育園の園長さんが電話をかけて下さって、「先生の短大を卒業した学生って、すごく勉強するんですね。」っておっしゃるんです。私はその卒業生にまだ会ったことがありませんから、「そうですか!」としか言えなかったんですが、我が事のようにとっても嬉しかったんです。そして、それはあり得ることだな、そう私は実感しています。それがこの学校の一番誇れることなのですから。それをこれからも、皆さんと一緒につくりあげていきたいと思います。どうぞ宜しくお願いいたします。ご静聴ありがとうございました。